saryの日記

つよがりで、がんばり屋さんな女性たちへ。肩の力をぬいてもあるけるようになるための日記☆ボイジャータロットから連想する気づき☆

Facebookをやめてどうなったか?

こんばんは。

今日はあいにくの雨。。。

でも、雨の日はグラウディングに向いていると本で読んだことがあるので、そんなに嫌いじゃない。それに今日のカードにはぴったり。

 

今日のカードは「Reflection」

遠い遠い北の、おとぎ話に出てくるような山あいの村の、湖のほとり。夜空にちらばるたくさんの星と、流れる彗星と、大きな月と、まっしろな大地と、ツンツンした黒い木々、針葉樹林の森。夜の静けさ。静寂しかないその場所。

そんなカードを見ていたら、思い出したのは、銀色夏生さんの詩集『すみわたる夜空のような』(角川文庫出版)。

 

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最後のページに、表題にもなった詩がのっています。

私はこの詩がとても好き。

 

「すみわたる夜空のような」

何かがだんだんとあいまいに死んでいくようなつきあいより

すみわたる夜空のような孤独を

(本文125ページより)

 

 

年末に、Facebookをやめました。

発作のように突発的にやめたのですが、今思えば、理由はまさにこれでした。

あいまいな知り合いがものすごいスピードで増えていくことに、違和感をずっと感じていて、そのピークがきてしまったんだと思います。

 

ビジネスに有効だからと、名刺交換をすると同時にFacebookでフレンドになる。

お店がある地域に住んでいるからと、知らないおじさん(店主)からフレンド申請がくる。

何気なしにいろいろな投稿を眺めていると、思った以上に時間を使っている。

それほど仲良くはない人の、プライベーや小ネタを垣間見てしまう。

苦い過去のある、小・中・高の知り合いと間接的につながってしまう。

リア充な人を見て、比較して自己嫌悪になる。

逆に、リア充なときは雄弁になり、自慢したくなる。

 

自分のことを発信できたり、呼びかけができたり、みんなの日常や、地域のイベント情報や、好きなお店やブランドの最新情報を知れるという楽しい部分もあるけど、上記のようなちょっとあいまいな気持ちになる部分もあるのが、私にとってのFacebook

いい・悪いというわけではなくて、何というのか、自分の余白がなくなっていく感じ・・・それが嫌で、自分のためのスペースをあけたくなったんです。

何百人もの情報に触れ続けることに、ちょっと疲れてしまったんです。

 

じゃあ見るのよせばいいじゃん~とも思うんだけど、これがなかなか・・・私には難しかった。

内容がどうであれ、あるものを見ない、知れるのに知ろうとしない、というのが私は苦手で、無視できない。素通りできないタイプなんです。

 

 

どうしてこれほどまでに人の情報を知っておきたいんだろう?

孤独がこわいから?

仲間外れがこわいから?

 

最初は、情報に触れるのが楽しい、と思えたのに、いつの間にか、知っておかないと損する・いけない、という気持ちになっていました。

コミュニティに属していないと「いけない」、みんなの話についていけるよう知っておかないと「いけない」、情報通でないと生きて「いけない」・・・そうでないと自分は「ここ」に居られなくなってしまう、置いてかれてしまう、通用しなくなる・・・

Facebookを始める前は、他人の情報なんて知らなくても充分に生きてこれたのに、Facebookをやり始めたら、知っておく・アクセスするのは必須、と思ってしまったのだから不思議。

 

 

人って、命としての死もそうだけど、存在としての死をとてもこわがっている。

自分の居場所がほしくてたまらない。

それは、自分の存在、役割、いる意味を感じたいからなのかな・・・

そうして、自分ではない誰かのために何かをする。

いいことなんだけど、行き過ぎると自分の中の自分の居場所まで他人で埋めようとしてしまう・・・

それこそ、内面の自分の存在の死。

余白を取り戻したい。

自分の中の自分のための場所が、やっぱりいる

 

と気づいて。だからやめました。 

 

 

 

「余白」は、自由になるために必要なものだと思っています。

私にとって「自由」は must have で、仕事でもプライベートでもそれがなくては息が詰まったように感じてしまいます。

 

結局、たくさんのつきあいよりも、自由と余白がほしくて、Facebookをやめました。

やめる前に、今後も連絡を取り合いたい人には別の手段で取れるようにしておいたので、不便はそう感じません。

つながらなくなってしまった友人知人もいるけれど、彼らの情報を知らなくても、別に支障はありません。ひどい言い方かもしれませんが、私の日々にそれらはなくても全然よかったんです。

言ってしまえば彼らは、通り過ぎに出会う人達。その出会いが何かに発展する人もいるけれど、そうではない人がほとんど。通り過ぎに出会えたその瞬間を楽しめればよかったりする。

それに通り過ぎても、縁があればまた何かでつながったりどこかで会うだろうと思っているし、そうでないならそれっきりでもいい関係性が、あまりにも多くありました。事実、私がFacebookをやめたことを知らないままの人はたくさんいるでしょう。

 

 

やめても、私の世界はそう変わっていない。

会う人は変わらずに会えている。

情報量は減ったけれど支障はない。

余裕が生まれて、その分、考えることが本当に必要な悩みに時間を使えているように思えます。

大事な人や、物事や、考えごと、悩みたちに使う時間が増えました。

それが何よりも、やめてよかったと思えること。

 

 

 

人によっては、SNSをとても上手に楽しんで活用している方もいて、とてもうらやましいです。

何でも相性というのがあるので、仕方ない。

私は相性がよくなかっただけ。

だから、楽しめているならいいんです。

でも違和感を感じたら、自分のための余白がなくなっているのかもしれません。 

 

  

 

そういえば・・・

「孤独と自由は同じだ」と、誰が言っていたんだったかな?

 

 

 

今日のさいごに、銀色夏生さんの詩

 

“何かがだんだんとあいまいに死んでいくようなつきあいより

すみわたる夜空のような孤独を”

 

に対して、自分なりに続きを書いて終わりにしたいと思います。

(ちょっと恥ずかしいけれど笑、浮かんだら言わずにはいられないのです)

 

わたしに余白を、自由を

ハッと気づく

足もとの影に小さく無数の白点

一つ一つを

ひとり

じっくり眺めるその時間は

あまりにも静かな孤独

向こうの孤独とつながる瞬間

 

 

 

 

2018.3.8「Reflection」