saryの日記

つよがりで、がんばり屋さんな女性たちへ。肩の力をぬいてもあるけるようになるための日記☆ボイジャータロットから連想する気づき☆

わたしとワタシのお話し① 思っていたより低かった自尊心

3週間ぐらい前のこと。将来どうなりたいのかを考えていた。そこで未来の脚本(なりたい未来像・ワンシーンを描いたり、それまでのストーリーを考えてみたり)を書いてみようと思って、スマホのメモに書いてみた。その時は意気揚々と書けた。でもしばらくして、さて続きを、なんて思って伸ばしたその手はピタッと止まってしまった。同時に気持ちも、未来へのやる気もなくなってしまった。それは今も続いている。

なんでやる気が起きないの? 

どうして自分の思った通りに自分は動けないの?

意識あるわたしと、内面のワタシが、一緒の方を向かないもどかしさ。

それについて思ったことを、これからしばらく書き出してみることにした。

 

 

最近 コーチングを受けている。その一環で自分を改めて振り返っていた時、わたしは自尊心がある方だと思っていた。大学生の頃から自己啓発を重ねてきたことと、これまで波を乗り越えてきた経験に裏打ちされた今の「わたし」は、以前より自覚が芽生えて志向がたしかになったように思えたし、10代20代と比べて自分を小さく見たり卑下することもなくなったし、自尊心はだいぶ育ったと思っていた。だから未来のことも積極的に考えたいと思うようになっていた。

でも、いぜ考え始め実際に手を動かし始めたら、ピタッと止まってしまった・・・やる気が起きない。

というより、やりたい気持ちはあって、そのためのプラン=日々やるべきこと=行動も考えられるんだけど、行動が伴わない。

モヤモヤモヤモヤ・・・

でも2日前、ふと気が付いた。

だいぶ育ってきたと思っていた自尊心は、実はまだ低いんじゃないかって。

 

自尊心というのを考え始めたきっかけは、たぶん大学1年生の春も終わる頃。

当時のわたしは、「よいこ」でいようといつも肩に力が入っていた。知らない土地と新しい人たち。相手の気に入るように、傷つけないように、イイことしか言わないように、みたいな感じ。だから人の顔色を窺いながら接していた。

正直それはしんどくて、でもそれ以外の付き合い方もよくわからない時期でもあって、すごく人に気を遣っていた。簡単に言うと「ごめんなさい」の気持ちがいつもあって、言葉にしなくても姿勢にそう出ている感じ。

そんな時、サークルのプチイベントで一緒になった同級生の女の子に、「そんなに気を遣われると疲れる」とちょっとうんざりした顔で言われた。

今振り返れば、やっぱりそういう人を相手するのは疲れるなと、自分でも思う。

その時その子に「疲れる」と言われてハッとして、自己啓発というのを意識するようになっていった。自分に自信をつけようとか、自分の感性や感覚を大事にしようとか、人の目を気にし過ぎないようにしようとか、おかげで「自己の成長」というのをすごく意識した学生時代になった。今では言ってくれた子に、気づかせてくれたことに感謝している。

卒業後も相変わらず自己啓発本は好きだったし、内面を振り返ることはしょっちゅうしていた。

そうして今、わたしは「自分中心」で生きている。

自分のやりたいことを認識しているし、やれているし、生活も何とかなっている。次はその質をどれだけあげていけるかをたぶん考えている。

そこでてコーチングを受けたけれど、自尊心について考えるワークの後に手が、意識が、気持ちが止まってしまった。

 

思い当たったのは・・・

実はワタシの自尊心は低い(それほど高くはない)のに、わたしは低いことがいけないように感じていて、だからもう大丈夫だと言い聞かせるように高くあるようにみせている気がしてきた。つよがっているんじゃないかなって・・・それは何というか、過去の、あの大学生の頃のわたしを今のわたしが拒否しているような感じ。

苦い時期があったから今がある、という気持ちはある。

でも、どこかでそういった苦かった頃の自分を恥ずかしくも感じている。

 

それに、夢がない・やりたいことがないとか、「ない」ということを否定的に思っていて、無理やりあるようにしているんじゃないか?ふとそんな考えも浮かんできた。

これまで認めたくなかったけれど、わたしの「ある」って言っているモノたちって、見せかけなんじゃないかって・・・

 

今ある自尊心もハリボテに思えてきた。

そうして、やる気が起きなくなってしまったのは、きっとそれが理由なのかなって思った。

未来を考え始めたとき、中身が実はスカスカでこのまま進むのは危ういから、ワタシがわたしの手を止めたのかなって、何となく感じている。

 

 

今日はおちがないんだけど、自尊心が思っていたより低いのかもしれないと思って、そうしたらワタシが「そうだよ」って言っているような気がしたので、とりあえず書いてみた。

自分をつよく高く「ある」「持っている」かのようにみせていないか?

つよがるのをわきに置いて、もう一度、自分の足元を見つめ直した方がよさそうだと思った。

 

 

2018.12.6 Narrowness

狭い中に物があればぶつかりやすいけれど、ぶつかるから気づくのだと思えば、自分の小ささはこれからの伸びしろでもあると思いたい。

10年前の小さなトラウマとさよならして、ロマンティックにいきましょう。

実はトラウマだったこと

昔、といっても10年前ぐらい、バンドメンバーに「あなたの曲はちょっと恥ずかしい感じがする」と言われたこと

その人にとって他人の曲が恥ずかしい場合もあるし、ピンときていない場合もあるし、テイストが好みじゃない場合もある(おそらくどれもそうだと思う)

ただその一言で、「自分は残念な人だ」と感じて、自分の感性そのままに表現することをためらうようになった

今思えば、そのおかげでアレンジを試行錯誤するようになったし、未熟さからくる幼稚さや目立ちたい・認められたいがゆえの技術盛り込みはしていないか気を付けるようになった

自分に酔うこと=表現ではないと、痛感した時だったと思う

 

ただその頃から、願うようになったのは「もっと情熱的に音楽をやりたい(打ち込みたい)」だったように思う

ドラマチック・ロマンティック・ストーリー性のある音楽が好きで、アレンジも曲作りもその傾向がある

でももちろんその傾向が合わない音楽もあるし、何より感性が信じられないのだからアレンジも曲も作っていてどこか不安

ダサくないか、演奏技術がひどくないか気になって、こわくて・・・褒められても疑心暗鬼になりやすかった 

自信があまり持てない分まわりをちょっと威嚇していたように思う

「自分の感性はちょっと残念気味だから、気を張っていないとボロが出る」みたいに感じて・・・

そんなんじゃあもちろんだけど、「情熱的に音楽」はできないわけで・・・

感情移入しきれないし、感情表現もどこか抑え気味になる

実際、自分のつくる曲・自分の弾く曲・表現する感じはつまらないなと感じていた

バンドを続けていても、クラシック曲を練習したりレッスンに通ったりしていても、ソロで音楽活動を始めた2年前(ちょうど今月で3年目突入)から今までも、正直そう思っていた

好きなんだけど、どこかのっぺらしている感じがして・・・何かが足りない感じ

 

 

 

 

 

今度ボランティアで、お箏の方と童謡を何曲か弾く

ピアノは全曲ゼロからのアレンジ

昨日はその練習だったんだけど、ドラマチック・ロマンティック・ストーリー性好きの自分の感覚そのままのアレンジを披露したら、「やさしい中にセクシーさがある気がする」と言われて、純粋にうれしかった

"あ!"とその時思った

 

今まであらゆる場面で、感性をあらわにすることを躊躇ってきた

自分に酔うのはダメ、客観的に!みたいに思っていたし

表現するとダサい自分が余計にダサくなるって思って(苦笑)

それは音楽の時もそう

でも躊躇は表現のブレーキになってしまうんだろうな

 

自分の感覚に酔ったっていいのかもしれない

酔うというより信じてみるという感じ

 

最初は酔ってみて、次は客観的にみて、また酔ってみて、また客観的にみて・・・

その作業自体は10年前から変わらないけれど、根っこはちょっと変わったように思う

「私は残念でダメ」から始めるんじゃなくて、「とりあえずOK」で最初を始める

 

 

 

 

今まで、テレビやコンサートでミュージシャンを見たり、成功している人の話を聞いたり見たりすると息苦しい気持ちになりやすかったけれど、最近は格好よく感じるし、感動しやすくなっている

そこに居るってこと自体がすごく胸を打つ

ドラマチック・ロマンティック・ストーリー性をもって音楽をやりたいと願うのは、自分もそう生きることを望んでいる表れなんだと思う

望んでいることを素直に感じられるようになったから、胸を打たれやすくなっているのかも?

 

練習で"あ!"と思った時、「情熱的に音楽をやる自分」を恥ずかしがる時期がようやく終わったのかもなぁと感じた

だから躊躇せずに、ロマンティックに音楽をやっていくことにする

 

 

2018.10.9「Disappointment」

 

 

 

 

 

「自分探し」と「自分づくり」は違うんじゃないかと思ったことについて

"30代にもなってまだ「自分探し」をしているの?"

他人から思われることも自分に思うことも嫌な感じがする

探すことを終えられていない自分が不甲斐なく感じて

人としてダメダメな気がして

"こんな有耶無耶な人になるつもりじゃなかったのに…"

自己嫌悪になることがある

 

でももう

そんな気持ちになる必要はないのかもしれない

 

20代のころは確かに「自分探し」をしていた

深く潜ればその分

その原因となる理由やきっかけがそれとなくつかめたから

探すことは自分にとって有意義だったと思う

自分を知るために

だから

自分探しをしている自分は嫌じゃなかった

 

でも30代になってそれが嫌になった

ううん

違うなと思った

 

探している自分は

現実にはきっと今はない

それは探すんじゃなくてつくるものであって

ポンと用意された既製品のケーキじゃない

材料探しから始める手作りのケーキなんだと思う

 

人から見ればわたしは相も変わらず「自分探し」のように見えると思う

でもわたしにとっては違ってきたよ

最近は「自分づくり」をしはじめたように思う

つまりやっとスタート地点に立ったということ

スロースターターも悪くない

 

 

 

 

2018.9.28  Star

 

 

 

 

 

 

自分が一番集中できる時間帯に、一番やりたいことをやればいいんだ!と気づいた。

どの時間帯が一番集中できるか?

朝の人もいれば昼の人もいれば夕方の人もいれば夜の人もいるはず

ちなみに私は朝

 

勤めていると朝から会社に行くことがほとんど

ということは

一番やりたいことである音楽(ピアノ)は帰ってからやるしかない

でも夜やろうとしても疲れた体と心ではやる気が起きなくて

結局だらだら過ごしてやらない・・・

一番集中できてやる気のある朝にやれるのはせいぜい休みの日で

でも出かける用事があれば朝から動くのでやらずに

帰ってからと思ってもやっぱり疲れからやる気が起きない・・・

 

そんなの気持ちの持ち次第なんじゃないの!

本気が足りないんじゃないの!

と思っていて

漠然と罪悪感がつよかった

 

でも最近気づいた

"朝に音楽ができる生活スタイルにすればいいんだ!"って!

 

9月から新しく勤め始めたところは午後出勤

なので

朝ちゃんと起きれば活動できる時間がちゃんととれる

(朝は起きられるタイプなのです)

実際に3週間経ってみて

毎日とはいかないけれど前よりだいぶ音楽の時間が増えた

そのおかげで

前は音楽がやれない不安からイライラしがちだったけれど

最近は比較的気持ちが安定している気がする

 

これまでずっと

「昼間は仕事して夜は自分のための時間とするもの」

なんて思っていた気がする

そういう生活スタイルが一般的だし

固定観念なんだけどね

(というよりそういう仕事が多かった)

でもたまたま午後出勤の仕事に就いて

一日の時間の使い方を見直したとき

"自分が一番集中できる時間帯に一番やりたいことをやればよかったんだ!"

とふと気が付いて

なんだかとてつもなく大きいモノを発見したような気分だった(笑)

 

何となくですが

自分の中の枷を一つ外せたような気がします

この変化によって何かが変わるのか?

わくわくしています

 

 

 

 

2018.9.20「Hermit」

 

 

 

 

 

 

 

安定よりも安心を求めているから、転職し続けているのだなと気づいた。

 

「建築するために破壊するのではなく、破壊のために破壊するようなところが、ふたご座にはある」

星座の本にそう書いてあって、たしかにそんなところがあるかもと思った

 

先々を思えば

今の場所にいた方がいいのかもしれない

我慢して頑張っていれば

そのうちにチャンスがくるかもしれない

もっと自分も成長できるだろう

生活も安定するだろう

でも、安心がない

安定はあるだろうけれど安心がない

だから今の場所を後にすることにした

 

未来を描けているわけじゃないのに

今得たいもののために衝動的に動いてしまう

そんなところが自分にはある

その衝動が「破壊」

環境・状況を一気に変えようとする

後のことは「まぁ何とかなるだろう」なんて思って

 

破壊行動は変化を起こすことと言い換えたとして

今までの変化の後(つまりは転職なんだけど)

新しいところでは今度こそ!と思うけれど

足を踏み入れた途端にどこか不安や違和感があった

背伸びしていたからなのか

その場所が望んでいる居場所ではないとわかっていたからなのか

大体はその場所に行って比較的すぐに後悔のような気持に襲われた

それでやめることになったとき

「あの時の違和感はやっぱり当たりだったのかも…」なんて思う

それで

「次それを感じたら正直になること!」と毎回自分に言うのに

心や直感に素直になるというのは結構難しくて

またやってしまうのだな…

 

先回りして考えることは得意なのに

自分のこととなると苦手だ

だから破壊のための破壊をするのかもしれない

建設的に将来を考えてしまったらきっと何も動けないから

人によってはそれは「そんな歳になってもフラフラして全く・・・」だろうし

人によっては「今を生きるってことね。あなたらしくていいんじゃない?」だろうし

考え方・捉え方は違う

自分も日によって違う

変化ばかりの自分の人生をイイと思える時もイヤだ思える時もある

 

それは表層のことで

だから時によって感じ方は違くていいかと思ってる

大事なのは根本で

「安定よりも安心を求めている」ってことなんだと思う

 

自分に安心するってことは

自分に対して穏やか=やさしいってことだと思う

だから安定よりも安心を求めている

それを土台にしたいのだとわかったから

破壊のための破壊の先にある新しい景色を

今度は背伸びしなくても見られると思う

 

ということで、また転職したのでした(苦笑)

今までの職場にいられない感がつよいときに

以前から行きたい「場所」の求人がポッと出たので応募したら

トントン拍子に決まって

やめることも無事に決まって

・・・ものすごくホッとした

「あぁこれでいいんだな」と感じた

 

今までの場所にいたからこそ気づいたことが「安定よりも安心」

あと自分に合う・合わないを具体的に言えるようになってきた

これまでの紆余曲折に

頑張ってきた自分に感謝できる

 

今はじまった場所は穏やかで

自分の気持ちも穏やかでいられる(今のところは笑)

今までのところに比べたら味気ないぐらいだけど

自分にとって自然だからとも言える

 

気づいてしまったら

気づかないふりを最後まで通すなんてできないみたい

 

 

 

2018.9.11 乙女座新月のカード「Tower」の翌日に思ったこと

 

 

 

 

 

自分が安心を感じられるリスト

 

 

「少年よ大志を抱け」

とカードを見て瞬間的に思った

 

力強く空に掲げる手が

自分のなかにもあると思った

 

"何者になりたい"

という夢は見やすいけれど憧れに終わることも多い

何者になれている人を見て比較しては落ち込むことも多い

「こんなわたしじゃぁ…」って

 

でもそもそも

叶えたいのは"何者になりたい"じゃない?

 

最近思ったんだけれど

"安心感のある自分でいたい"

なら叶えられると思わない?

安定でもなく

誰かにつくってもらう安心でもなく

自分が自分に安心できるようにすること

 

わたしの場合それは

・ピアノを練習する余裕があること

・お風呂上りにストレッチやヨガで体を整えること

・カフェでひとりの時間を過ごす余裕があること

・仕事があること(ただし時間が決められていること)

・自分の活動やスキルが求められているって時には感じられること(褒められること)

・日々疲れても、せめて本を読む元気が残っていること

・日々疲れても、こうやってブログを書いたり日記を書いたりする余裕が残っていること

・お金が底をつきないこと(贅沢したいわけじゃなく、必要+αでものを買う余裕)

・母が元気なこと

・パートナーがいること

・お茶に誘いたい友達がいること、お茶すること

・人の役に立っていると時には実感できること

・本と音楽に関わる仕事をすること

・基本は柔らかくいられること

・知的で教養で品のある自分でいられること

 

何者になれている人は

自分が自分に安心できること

つまりは好きでいられるようにしていたら何者になったのかも

 

今日は魚座新月

「長年思い描いたことが現実になりそう」

と本にある

「自分が安心を感じられるリスト」をつくって

できるものから実践してみようと思った

 

 

2018.8.26 魚座新月 「Aspiration」

 

 

 

中途半端で気まぐれで、でもそれでいてもいいと思えたなら

 

 

もし本当に好きなことなら

毎日やりたくなるし

仕事でどんなに疲れていてもそのための時間を取りたくなるんじゃないか?

という風にずっと思っていた

だから

生活に余剰の時間がないと取り組もうとしない好きなことは

本当の意味では好きと言えないのではないか?

と思っていた

 

わたしが一番左右されるもの

それは時間があるかどうか

余裕や余剰があるかどうか

 

時間がきつきつな時

好きだと思っていることでも

やろうなんて思えなくてしょっちゅうサボっている

その時間をだらだらと過ごしてしまう

時間がある時でも

気持ちや体力に余裕がないなら同じだ

 

どちらかというと気まぐれだ

好きな事にも

好きな人にも

何に対しても

 

それじゃあいけないと思っていた

どんなに大変でもそれに対して時間と気持ちを割く"べき"で

それがホンモノだと・・・

でもそれは

わたしには無理らしい

とようやく気がついた

 

それぐらいの本気度でも

好き度でも

いいのだと思うことにしよう

比べることはない

 

そのまんまでいよう

今日は

ううん

自分の人生を生きてみるって

そういうことだ

 

好きな事が

生活や時間に余剰・余裕がないとできない

それなら

そういう生活ができるようにするだけなんだ

自分を誰かのスタイルに当てはめなくてもいいんだ

 

もしそれで

路頭に迷うとか

仕事減らす分周りに迷惑かけちゃうとか

非常識だとか言われても

(大抵、そう言ってくる人が非常識だったりする・・・自分含めて)

今を生きるために変えよう

(大抵、何とかなるものだから)

 

今の自分はなんだかこわい人だ

余裕がなくて

きつくて

厳しくて

がさつで

なあなあで

とても好きになれない

 

細部まで行き届いた居心地のよさ

ゆったり構える大らかさ

を目指してたいのに

真逆に向かってしまっている

何が足りない?

それはやっぱり余裕・余剰だと思う

気がついたから変えたい

 

この数か月は

そう気づくための機会だったのかな?

だったらそれほど悪くはない

 

変えるって

滅茶苦茶パワーを要する

ひと段落するまで辛抱がいるけれど

やってみせる

ううん

そうできると勝手に思っている

 

そんな身勝手さと気まぐれさと傲慢さを持つ

子どものようでいよう

今だけは

でなければきっと走り切れない

 

 

 

2018.8.25「Fool Child」